お経を見たことはありますが、漢字の羅列に何の意味も見出しておりませんでした。
『歎異抄』というのは、真宗の経典ではなく、親鸞の弟子の唯円が、自分の師の言ったことを書き残し、本来の宗旨から「異なったことを言う人がでてきていること」を「嘆く」書だそうです。全部で18条の短い文書なので「抄」というのでしょう。
長いこと本願寺の秘書として表に出されてこず、明治以降に衆人の知るところとなったもののようです。
ただ、これを読んでもさっぱり宗旨は理解できません。
要は、
- 仏を念ずれば、阿弥陀さまが極楽浄土へ連れて行ってくれる
- 浄土へ行くのは自力ではなく、阿弥陀さまの不思議な願いによるもの
- 善悪は業縁の違いによるほんの少しの違い、阿弥陀さまは善悪関係なく救ってくれる
煩悩がある人ほど仏が救ってくれる、悪人ほど救ってくれる、というのは平安から鎌倉への移行期の戦乱の世の中であればこそ説得力があったのでしょうか。確かに善と悪を判断できるというのは傲慢かもしれません。
阿弥陀仏への強い信頼は、神との心のつながりが中心とするキリスト教と近いものがあるように思います。
大学時代に「歎異抄研究会」なるものに熱心に誘われたことがあるのを思い出しました。
0 件のコメント:
コメントを投稿